未来考房/瓦人 ~gajin~

和瓦とその未来を創る淡路島の瓦師ブログ

寄稿「屋根再考」

先月、全国いぶし瓦組合連合会の広報誌に寄稿した文章を一部加筆しここにシェアします。

(*1/17に寄稿したものなので、一部内容にタイムラグがあります)

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このたび令和6年能登半島地震により被災された皆様に心よりお見舞い申し上げます。

一日でも早く平穏な生活を取り戻されることをお祈り申し上げます。


[屋根再考]

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さて、見事なまでに見渡す限り黒瓦の美しい風景が広がる能登地方だが、多大なる損害を受けて崩れた姿は痛々しくて見るに忍びない。

大地がうねるような場所での大損壊は別にして、屋根面と縁が切れてバッさと落ちた古瓦、ほとんど落ちずに瓦屋根ごと建物を押し潰すように崩壊した住宅…応急処置で走り回る北陸の葺き師から写真が送られ、被害の惨状と向き合いながら“落ちる瓦”と“落ちない瓦”の優劣と善悪に対し、言葉で表現できない不条理を感じているという相談を受けた。

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阪神淡路大震災以降、落ちない、落とさないを目指し続けた30年。

一方で、土葺きで落とすほうが建物の崩壊を免れるのではないかとの、一部では都市伝説と揶揄される見解も確かに残り続ける。


・特に石場建て古民家の葺き替えでは、釘を打たない桟掛け馴染み土葺き工法も選択肢としてあってもいいんじゃないか?

・北陸ならではの地瓦の銅線吊り留め工法を失ってはいけないのではないか?

・やはりしっかりとした耐震改修を施した上でのガイドライン工法であるべきではないか?

・ただ、そもそも耐震改修すらできないほど多くの日本人は経済的に厳しいのではないか?

・設置しては片付けられるコンテナハウスこそ持続可能な住宅ではないのか?

・いっそのこと3Dプリンター住宅が近未来型住宅ではないか?

様々な視点からの考察に絶対正解はない。

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まだまだ先になるだろうが、復興が始まると一体どのような住宅が供給され、どのような町並みが形成されていくのか?

おそらく即席の仮設住宅や簡易な復興住宅が、血の通わない規則的な配置でレイアウトされ、まるで収容所施設のような風景が描かれていくことが多分に想像できる。

地域モデルの素材と意匠も検討されているが、どこまで本質・本歌に近づけるかは疑問だ。

 

輪島の朝市周辺整備はどうか?

黒瓦の連なる情緒ある風景は再生されるだろうか?

精神論やキレイゴトだけでは理想の実現が難しいのは重々理解できる。ただ、かといって素材に生命力なく、デザイン性のカケラもない装置のような建築が居並ぶ姿は想像したくない。

勝手な見方だが、その時点で輪島朝市は1,000年続いた物語が断絶し、文化的・観光的価値を大きく毀損すると思う。

長い歴史において形作られてきた土着の建築意匠や素材とは、それほどその土地のアイデンティティーや風土を象徴する重要な要素であり、またかけがえのない価値である。

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いろんなジャンルのノーベル賞受賞者や、学問、ビジネス、文化、芸術…各界の大成者の生い立ちを紐解くと、都会で受験戦争に揉まれて勝ち抜いた者ではなく、絵に描いたように美しい風景や町並みに包まれて育った者が多いという統計があることからしても、その土地特有の風土は人財育成にも貢献する。

にも関わらず、国民の生命を守るため国策として瓦屋根を全て解体し、金属に葺き替えるべきという建築士まで現れ、長く続いた(続けてきた)土着の文化へのそのあまりの無責任さに憤る。

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人はもはや動物のように裸では生きていけないので、どんなに災害に遭おうと、どれだけ崩壊と再建を繰り返しても建築というものに住まないと生きていけない。

ではどのような住まいがよりベターなのか?

絶対に壊れないシェルターのような住宅?

壊れても直しやすい素材と構法の住宅?

壊れたら簡単に廃棄でき、また簡単に設置出来るモバイル住宅?

どんな終着点を目指すかによって、方向性は全く別れてしまう。

 

世界の建築文化と風景を見てみよう。

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ことヨーロッパを例にあげると、長い歴史の中で様々な災害や戦争などを経験しながらも、なお1,000年経っても変わらず例えば朱い瓦屋根の続く美しい風景を有する国々が多い。

日本もほんの100年前までは、日本中どこの昔写真等を見ても瓦屋根ばかりが続く美しい風景が広がっていたが、戦後瞬く間に消え去った。

世界的観光都市であるはずの京都ですら、東山魁夷が描いた美しい雪景からほんの50年で無残な有り様だ!

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一概に文化水準や民度の差とは言えないこの差は一体なんなのか?

 

僕は、美しく誇らしい風景を有することから醸成される帰属意識や郷土愛、地に足ついたアイデンティティから育まれる美意識の差であると考えており、日本はその点において残念ながら戦後まったく腰折れてしまったものと思われる。

文化立国たるべく重要な三術のうち学術・技術に傾倒し過ぎ、芸術というものを置き去りにしてきた弊害は少なくない。

 

現代の家づくりの多くは高性能と省エネのための手段とはいえ、断熱材など見えない部分の素材をなんだか“毒々しく”感じるのは人間としての本能的な感覚である。

“快適”はヒトのためだけであって、果たしてヒト以外のためにもなっているのか?

 

僕はテクニックやテクノロジーだけでは、あらゆる意味での持続可能な建築や社会は実現できないと思っている。

そこには環境やエコというキーワードのもと、“全体”を意識したアプローチのようでいて実は“個”としての自己満足(humans first)でしかないと思えるものが多い。

 

竹かんむりに土・瓦・木と書いて建築の“築”。

100年、1,000年の計でモノゴトを考えると、木と土と竹と瓦と石で出来た建築のほうが説得力があるし、風雪に耐えた実績もあるし、なにより圧倒的に美しい。

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“キレイゴト”ではなく、事実“キレイ”だ!

“キレイゴト”は誰かが言い続けなければ、そして創り続けなければキレイにならない。

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例えば住宅建築の高性能化も確かに大事だが、人間関係の高性能化の方があらゆる面においてより持続可能性に富む。カラダの充足よりもココロの充足の方が圧倒的に大事だからだ!

 

黒瓦の町並みのように物語が宿りデザインと素材に秩序ある屋根と屋根が折り重なるような美しい風景をつくり、その屋並みのもとにある同じく折り重なる人の関係と、今希薄になってしまった繋がりの深い豊かな地域コミュニティをつくりたい…この“人と人のつながり”をもってする本当の意味での心身健全な“環境”こそが、あらゆるモノとコトの持続可能を実現できると思う。


災害に遭って、改めてその集落やコミュニティの関係性の深浅が地力の差となって露わになる。

今回の能登半島地震において、避難所の分析結果が報道されていた。

「うまくいく避難所」

・協力し合う雰囲気

自治会が避難所を主体的に運営

→ 自発的に身の回りの整理整頓・清掃


「うまくいかない避難所」

・避難者の振る舞いが「お客さん」

→行政職員に不平不満と要求ばかり

→配食は行政職員任せ


国とは“ヒト”であり“モノ”ではない。

ヒトとヒトの関係性の高性能化が地域再生地域活性化を成す。

このヒトの関係性をより深く豊かに形成するのは、やはり帰属意識や郷土愛の高さであり、地元への求心力の強さである。

そしてそれらを育むには、まさしくその国、その土地らしい風土風景が必要だと思う。

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学術、技術、芸術の三術がバランスよく揃った教育、ヒトづくり、家づくり、まちづくり…即効性が必要な危機的な状況だが、もはやこの積み重ねで、50年100年をかけてでも失われた価値を取り戻していくしかない。

能登だけではなく日本中がこのような意識で再生をはかっていくことを期待しつつ、与えられた立場で日々瓦づくりに精進したいと思います。

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