淡路島「宝生寺」の現場も梅雨の晴れ間を逃さず“滝汗”の瓦あげ…昨夕も工場仕事を終えてからのパンプアップは体のあちこちがキツい(汗)
ただ、建築が瓦の衣で覆われてくると嬉しくなる^^
地球由来の素材のチカラか?
悠久の歴史を生き抜いてきた底力か?
金属など新建材とは比較にならない、理屈ではない安心感を覚える。
やはりニッポンの里山景にあっては瓦屋根が美しい!
まぎれもなく世界に誇る価値だと思う。
なのに、なぜ当たり前でなくなったのだろう?
以下は以前の考察…
「屋根再考」
それにしても、津々浦々日本の住宅建築は猫も杓子もガルバリウムを代表とする金属の屋根ばかりになってしまった!
素材としての質感やエイジングの美しさでいうと当然物足りないが、絶対的な予算の問題、構造的な必然性、またはデザイン面での柔軟性…など様々な理由がある。
国宝や文化財、社寺、伝建地区などの建築は別として、いま瓦を採用する必然性がないのが問題だ。
この“必然性”を創る仕事が大切。
日本の建築景観の魅力のなさは、その固有の歴史・伝統・民族性・精神性…をベースにして本来具わるべき“美意識”の完全なる欠落が原因。
文化立国たるべき重要な三術のうち、学術・技術を優先し過ぎ、芸術を置き去りにしてしまった弊害は、住宅行政だけにとどまらずとてつもなく大きい!
大工、左官はじめ、歴史と伝統とリアルな経験値に基づき五感全部で素材を知り尽くした家づくりのプロフェッショナルが、絶対的に“こうあるべき”という家づくりが今叶わないという大いなる矛盾に満ちている。
瓦師と瓦葺き師が絶対的に”屋根は瓦たるべき“といくら思えど、それが実現しないのは何故か?
やはりいま必然性がない。
学術・技術・芸術の三術が備わった“日本的美しさ”というものを建築に取り戻したい。
そこには佇まい美しい瓦屋根が一つの”必然“の選択肢として土俵にあがる機会が増えるはず!
住宅は決して“装置”ではなく、母体のようにもっと大らかで柔らかく、温かくて優しい、また時に冷たく厳しくも大きな抱擁力と度量で包みこんでくれる生命力ある“体”だと思う。
装置に心はなく、生命力も宿らない。
装置に侘び寂びの精神はなく、古美る美しさもない。
もっと地球由来の素材のチカラが持つ、計り知れない“神秘”に委ねたい。
数値数値と五月蝿い現代…大地の恵みをいただき、ただ焼くだけの「瓦づくり」という仕事をしていると、数値などとはまったく無縁の、人と自然の関係性におけるもっと根源的で計り知れない深遠なる世界の存在を肌で感じる。
日本の家も人も景観も、そのsomething else(大いなるもの)の意思と摂理に従い本来もっと美しくあろうとするはず…“必然性”は言い換えればあるべき“自然”の姿へと還るだけのような気がする。
大きくても小さくてもシンプルに“美しい”と思えるような、日本人の琴線に触れる瓦と屋根を創っていきたい。
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